Essays in Japanese


 
  鉢植え [平成20年夏]
[平成20年の夏の日]

「鉢植え」

国際会議から帰ってきたら、台所に見覚えのない鑑葉植物の鉢があった。
目を疑ったが、ゴミ箱だった。

(English Translation)
[Some summer day in 2008]

"Plant in my kitchen"

I came back from a conference and found a beautiful vine
in a flowerpot in my kitchen. Actually it was a dustbin.
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  空腹感とハングリー精神 [平成25年10月]
[平成25年10月に豊橋技術科学大学に赴任して、11月初めに書いた新任
教員挨拶の、一部分] (in Japanese only)

「空腹感とハングリー精神」

長く続く上り坂を彼は一歩一歩ペダルを踏み込んで登っていく。大根畑
とキャベツ畑に挟まれたこの細い農道が大学への近道である。朝日を睨
みながら風を受けて進んでいると様々な考えがとりとめなく浮かんでは
鱗雲とともに流れていく。大根の葉の青々としてなんと美しいことか。
先程朝食を摂ったばかりというのに早くも食い意地が頭をもたげてきた。

10月1日、着任の日、彼は食堂の前で呆然と一時閉鎖の告知を見ていた。
豊橋技科大の食堂は来年の4月まで半年間開かない。赴任早々に難儀な
ことになった。彼は大食漢である。腹の虫が職務遂行上の最大の敵にな
るのは想像に難くなかった。

仮設の売店には厨房が無い。毎日大量の弁当が積まれ、またたくまに売
れ、あっというまに大量のプラスチックゴミの山となって消費されてい
く。弁当箱に入るカロリー量はたかが知れている。いったい食べ盛りの
学生達はあの程度で空腹を満たせるのだろうか。彼には到底無理である。
あまりにお腹が空くので、とうとう弁当は2つ買うようになった。もっ
とも、彼は特大の弁当箱を持っているのだが、なかなか弁当を作る余裕
がないようである。

いまだかつてない、満腹感と無縁の生活が一ヶ月ほど続いた後、彼は浴
室で鏡に映る自分に浮き出たあばら骨を認めて驚愕した。たった一ヶ月
でここまで変わるものか。そういえばペダルも前よりも楽にこげるよう
になったし、ズボンはすべてぶかぶかになっていた。

次第に新しい環境にもなれてきた彼は、ようやく自らの研究に取り組む
余裕を持てるようになった。計算に没頭していた彼がふと外を見ると、
すでに闇の帳が田畑を包み込んでいる。彼は階段を駆け下りて颯爽とサ
ドルにまたがり、暗緑色の大地を見下ろした。坂道を一気に下っていく。
ライトにキャベツが浮かんでは消えていく。晩ご飯はお好み焼きにしよ
うと思った。

なお、私は実際には彼とは違ってバス通勤であるし、そんなに食い意地
が張ってはいない。
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  年度末 [平成26年3月]
[平成26年3月30日 日曜日] (in Japanese only)

「年度末」

塩をひと掴み、放り込む。菜の花を茹でる。鮮やな黄緑である。茎をひ
とつつまんでみる。思いのほか苦い。ざるにあげて流しの水を止める。

不思議、まだ水の音がする。雨樋の音。外は雨の様子である。

ざるからひと掴み、頬張った。喉をなかなか通らない。焙じ茶で流し込
んで一息、ふっと苦笑いして流しのふちで頬杖をつく。

また年度が変わる。この時期は何とも言えない焦燥感が胸やけのようだ。
ひりひりとしてうきうきしている。

数日前、京都の研究会に行ってきた。いつもの面々による、しかれども
いつもより本音で話した研究会。これぞ関西風研究会といったところ。
そして学食で定食を食べた。ひさびさの感覚。学問にはどんぶり鉢山盛
りのご飯が必須なのだ。

豊橋に帰ってきた。やはり学会シーズンである。学会帰りで英気に溢れ
ている人々がいる。そして豊橋の学食は4月1日に再開する。期待が持て
る。新学期の始まり。

おもむろに、冷蔵庫から冷やご飯を取り出す。菜の花とチャーシューを
載せる。焙じ茶をかけて、本日のお夜食。
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  ナズナ平面 [平成26年4月]
[平成26年4月の終わり頃] (in Japanese only)

「ナズナ平面」

明け方近く、目が覚めたか覚めないか、うすぼんやりした頭で計算量と
不確定性の関係について思案していた。無意識と意識を隔てる超平面を
くぐって、いかにも有用そうな不等式や恒等式が泳いでくるが、いずれ
も見知ったものばかりだ。捕まえて魚籠(ビク)に入れるには値しない。
ぶつぶつ文句をいって寝返りをうち、布団をかぶってもう一眠りする。

しばらくすると暗闇の中からふいに白黒のブチの猫が現れて、目が合っ
たのでお早うございますと挨拶を交した。はっとして周囲を見渡すと、
いつのまにかジャケットを羽織って散歩に出ていたようだ。カシやケヤ
キの並木が続いている。左手には逆戈神社、右手は荒地か休耕地のよう
だ。しばらく進むと、見慣れた赤茶色の橋がかかっていた。

そこは海まで数キロメートルのところで、ゆったりとした流れの川は淡
黒色の里山をぼんやりと写し込んでいる。河岸は一面、白い絨毯を敷い
たようだったが、近寄ってみると満開のナズナに覆われていた。土手を
降りていき、おずおずと足を踏み入れる。膝下が消えて浮遊したような
心持ちがする。

しばらく佇んでいたが、何か遠くからザワザワ音が聞こえてくるように
思えた。じっと目を凝らしていると、西の方の川辺にカオス的な紋様が
浮かび上がった。と見えたその刹那、頭から氷水をかけられたようにサ
アッと血の気が引いていく。ゴオッと音がして、あたり一面におどろお
どろしいモノクロのセルオートマトンが踊りだした。

目を瞑って首を振り、夢を覚まそうとするが、まったくうつつにもどら
ない。脂汗が頬をつたう。拭おうとする指がガタガタと震える。

おかしい、どうやら夢ではないようだ、おもむろに回れ右をして斜面を
這い上がる。一面の白い花弁が激しくなびき、ちぎれ飛んでいく。ぎゅっ
と拳を握り締めて膝小僧を押し、土手とアスファルトの境目を踏み越え
ていった。

なるほど、強力な下降気流だったのだ、とようやく頭がまわり始める。
手足の震えはうっちゃっておいてそそくさと元来た道を戻り始める。急
な坂道をゼーゼーいって登りきり、ほっと一息ついて、振り向いた。こ
こまで登ると、東の山麓にうっすらと朝日が散乱されているのが見える。
そこから西へ目を移すと、薄墨色の川面が激しく揺れていて、土手を覆
い尽くす白絨毯は轟轟と逆立っている。

見る間に、山影から灰色の霧がクリームのような粘性でどろどろと流れ
てきた。絨毯を分厚く上塗りしていく。橋がデコレーションケーキの飾
りのようだ。その橋の片側から突然巨大なボラがポーンと飛び出して大
きな弧を描がき、クリームの中にボトンと消えていった。

晨鶏一聲(シンケイイッセイ)、はっと気がつくと布団をたたんだ上に仰
向けになり、天井の板を止めているネジの数を数えていた。寝間着では
なくポロシャツにジャケットを羽織っている。よっこらしょと体を起こ
して流し台へ足を運ぶ。インスタントコーヒーにたっぷりと生クリーム
を入れて飲み干した。

その日は休日である。例によってプログラミングに専念して昼食をとり
忘れたので、夕食で2食分カロリーを摂取した。

翌朝、出勤の支度をしてアパートを出ると、小糠雨が降ってきたので、
引き返して傘を手に取った。たったか歩いてバス停にいくと、一つ前の
バスがちょうど8分遅れで到着したところだった。しばらくつり革につ
かまり、キャンパス内にあるバスターミナルで降りる。傘を半開きにし
て、歩道を歩く先頭集団を横目に、植え込みの中を突っ切っていく。少
し小走りになって大通りに飛び出し、そそくさと居室のある建物に向かっ
た。自動扉からすぐの階段を昇っていく。踊り場を曲がって上を見ると、
廊下の青白い壁に大きな影が浮かんでいる。立ち止まって様子を伺って
いると、白黒のブチの猫が姿を現し、そろりそろりと階段を降りてくる。
踊り場まで降りるとジロッと私の顔を見上げて、長い尻尾を少しくねら
せながら、低い声で不機嫌そうに挨拶して通り過ぎて行った。

追記:そういえば、前回の教員会議の資料に、"猫対策"の記述があった。
このところ、校舎内に勝手に入ってくる猫達がいて困っているとのこと。
 
ナズナに覆われた河岸 (平成26年4月28日撮影 豊橋市の梅田川中流域)
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  緑甍残月、赤山碧空 [平成26年9月]
[平成26年9月、国際会議IICQI2014から帰ってきて] (in Japanese only)

「緑甍残月、赤山碧空」 (ロクミョウザンゲツ、セキザンヘキクウ)

イスファハン国際空港は小じんまりとした平屋であった。ゲートをくぐ
って数歩歩くとすでに屋外であり、赤茶けた荒野に所々潅木が茂ってい
る。親切にもイスファハン工科大学の学生が車を出してくれて、すぐに
宿舎に向かうことができた。一般講演者に対しては破格の待遇であるよ
うに思えるが、イランでは客人に対してこれくらいは普通のことである。
日米欧ではこの規模の会議を開催したとして、これほど人手をかけられ
ないであろう。やや羨望が混じった感謝の念をいだきつつ、助手席の窓
からモノトーンな風景をながめていた。

途中、賑やかな─といっても背の低いビルしかない─イスファハン市街
地を通り抜けて、再び荒野に入る。しばらく進むとゲート付きの検問所
があった。そこがイスファハン工科大学の広大な敷地への入り口である。
さらに数分、坂道を登ったところに薄緑色のレンガ造りのゲストハウス
があった。部屋は清楚な内装、バスタブのないシャワー付きトイレでは
あるが、以前泊まったことがあるエリチェ(イタリアはシチリアにある山
岳の村)の修道院宿舎よりはずっとましである。この日と、帰国前日のみ
ここに泊まり、会議期間中は市内のホテルに泊まる。まずはスライドに
使うプロットを作るため、豊橋のサーバーに置いているデータが必要だ。
インターネットに接続してみる。やんぬるかな。22番ポートの接続速度、
実に200bps、数十メガバイトのデータを取得するのに5日かかる計算であ
る。その日は結局仕事にならなかった。翌日、発表前日はホテルに移動
したが、そこでも数kbpsがせいぜいである。いよいよ腹を括り、羊肉の
挽き肉のケバブをレモネードで流し込んで、布団をかぶってふて寝する。

会議初日の夕方、黄金色の太陽が半ば枯れた赤松の林に沈むころ。自分
の発表は聴衆の笑いも取り─もちろんきちんと学術的な内容も話したが─
つつがなく終えることができていた。まったく信じられない。実のとこ
ろ、データがその日の朝にようやくダウンロードできて、あわやという
ところであったが、アクロバティックなスクリプトテクニックを駆使し
てプロットを仕上げ、発表20分前にスライドが完成したのであった。

前もって地元主催者に、数百kbpsは出ると聞いていたので、安心してい
たが、彼らのいうネットワーク接続は80番ポートについて言っていたの
だった。sshやsmtps、imapsといったセキュアな接続は徹底的に絞られて
いてほとんど使い物にならない。次回以降、この国を訪れる際にはゆめ
ゆめ忘れてはならない。それにしても、前回2010年の訪問では、同じホ
テルで少なくともポート番号関係なしに数Mbpsでていたのであるが、こ
れほど劣化するものか。この間、この国の政治に何があったかは自明で
ある。しかも現在の我々にとっても決して他人事でない。

さて、古都イスファハンを訪れるのは二度目である。名所旧跡は前回の
エクスカーションで連れていってもらったので─もちろん、国際会議に
付き物の、研究上の議論をしながらの観光地巡りである。決して物見遊
山ではない。─今回は夕方〜夜にかけては、現地の学生と議論しながら
付近の散策や研究室見学をして来た。まず学生実験室の整理整頓の行き
届いた白い実験台の並びに圧倒された。ピカピカに磨かれた大きな実験
台が20台も並んでいる。床にも埃一つ落ちていない。大学構内の道路は
整備費用が足らないのか、お世辞にも綺麗とはいえないが、講義室や実
験室は使用者の心意気がひしひしと伝わってくる美化の徹底ぶりであっ
た。

彼らイランの学生は、男子学生の場合、大学あるいは大学院修了の時点
で、徴兵または奉仕活動で二年の徴用がある。ために、その間は研究が
できなくなる。しかも、この徴用の証拠がなければ、男性は海外留学や
海外旅行が基本的にはできない仕組みになっている。もっとも、相当な
金額の保証金を残していけば、渡航可能ではあるらしいが、市井の民草
には重い負担に過ぎるそうである。

イランにおける研究者の賃金は低い。教授が月1,000米ドル程度、インス
トラクターでは250米ドルにとどまる。それに対して物価はうなぎ上りで
あり、学食の鶏肉とライスの定食が3米ドルもする。多くの若手研究者達
が、大学に職がありながら、休日はIT技術者やタクシードライバーなど
をして食いつないでいるという。待遇については、マクロな政策転換が
なければ何ともならない。一国の科学研究の業績が低迷する理由という
のは、非常に単純である。ある分野に研究者のポストがなければそもそ
もその分野専任の研究者というのが存在しないし、ポストがあっても研
究者の生活が成り立たないならば成果が上がるはずがない。

学生達は、誰もが留学生あるいはポスドクとして欧米の大学を目指して
いると言っていた。本来、イスファハン工科大学は国際大学であり、中
東の周辺諸国からの人材の受け入れを目指していたのであるが、実態と
しては人材の輩出元となっている。

かような苛烈な環境であるゆえに、男子学生の大学院進学率は落ち込ん
でいて、物理学科でも大学院生の半数以上が女性である。伝統的に、イ
ランは大家族制であり、女性は実家が手厚く支援する。ゆえに学問に打
ち込む余裕があるのだと言う。環境悪化が招いたイランの研究社会での
女性比率の増加。皮肉である。

休憩時間に会議をしているホールの踊り場から周辺を見渡す。赤い山々、
紺碧の空、そこにうっすら浮かぶ丸い月、緑色の甍で被われたモスク、
これらが大学構内に収まっている。敷物を広げてくつろいでいる女学生
達がそこかしこにいて、笑い声が流れている。(註:午後の休憩時間なの
で月齢との矛盾はない。)

この会議では、なぜか日本からの参加者が私一人だったため、普段は呼
ばれないスポンサーとの社交的ディナーにも呼ばれていってきた。テレ
ビカメラが回る中で、教授連中と歴史、政治、学術界の来し方行く末に
ついて議論するのはやや緊張を伴ったのか、料理の味をほとんど覚えて
いない。ただ、ライスプティングのほのかな甘さが印象に残っている。
ディナーの最後には一人ずつテレビカメラの前でスポンサーとの対談形
式で謝意と今後のこのシリーズの会議への期待などを述べることになり、
なかなかに前向きな発言をひと綴りまとめることができた。3時間を越え
るこの晩餐が終わったとき、ひどくやつれていたらしくスポンサーの一
人のご婦人から労いの言葉を受けていたく恐縮した。日本の年配の方々
には、次回からはまた、ぜひこのシリーズの会議に出席をしてもらいた
いと切に願う次第。

滞在最終日、空港へ立つまえに、お互いに拙い書道で、現地開催委員の
一人の大学院生がペルシアの故事成語、私が表題のように緑甍残月、赤
山碧空などと、大ぶりの筆ペンで便箋に記したものを交換した。(註:こ
の日はすでに満月を過ぎていた。ゆえに残月を見た。) 一通りの挨拶を
すませた後、国内参加者とタクシーに相乗りして空港へ向かった。ドラ
イバーは気さくな丸顔のアルメニア系の中年男性で、おしゃべりをしな
がら一般道を時速145kmで、知らぬ車とカーチェイスして、40分ほどで到
着した。空港の両替所が閉鎖されているので、またレアルを持って帰る
ことになるが、次回のこの会議にも来るのでよしとしよう。

ドバイ行きのペルシア航空の飛行機は案の定1時間遅れで出発した。空調
が壊れていてしかも満席であったが、500mlの半ば凍ったミネラルウォー
ターを配ってくれたのはありがたかった。鶏ササミのケバブの機内食を
フォークとスプーンでつつきながら、隣の初老のご婦人と知らぬ間に世
間話をしていた。彼女の実家にペルシア系の嫁がやってきたが、その娘
すなわち彼女の甥の娘が最近おてんばで、工場に上がり込んで圧搾機の
回りを走り回っているそうだ。さようでございますか。うちの本家には
アメリカ人が婿に入って、跡取りは青い目をしていますよ。榛色(ハシバ
ミイロ)の目を横目に見ながら当たり障りのない話をながながとしていた。

ドバイを経由して関西国際空港に帰ってきた。空港の食堂街で煮込みハ
ンバーグ定食を食べる。この出張は食べ納めもケバブになった。
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  肥後の地は春霞 [平成28年4月]

[平成28年4月、崇城大学に赴任して] (in Japanese only)

「肥後の地は春霞」

富尾の丘からキャンパスを望む。青い稜線が霞をまとい、いかつい建物
の並びが影を浮かべている。視界を縁取る枝々が9分咲きの花をつけて
面映ゆい様子である。手を掲げると清水のような冷気が細かな水滴を指
の間に残していく。

こんな秀麗な朝には濃茶と三色団子でも広げてモーニングティーを嗜む
べきところであるが、あいにく赴任日で式典がある。肩にかけたビジネ
スバッグから栄養ドリンクの小瓶を取り出して喉に流し込み、丘から降
りる階段へ小走りで向かった。

この日は辞令交付式に昼食会、学科会議に歓迎会、と長い一日となった。
夜、また富尾の丘に登る。大学の裏口のバス停はそこにあって、かなり
遅くまで発着していて便利が良い。また湿った冷気を感じる。朝晩の熊
本の空気はこうなのであろう。

その深夜、布団の中で市内散策の計画をうつらうつら考えていた。まず
は、自宅アパートの周辺でよろずの店を探すのが大事であろう。自転車
で20分程度の範囲を回るとしよう。

朝ぼらけ、趣味のプログラミングに打ち込んでいる自分の顔をディスプ
レイに認めてはっと目が覚める。やんぬるかな。こうなっては朝寝して
それから動くことにせざるを得ない。血走った目に目薬を落として、ク
ロワッサンと錠剤の栄養剤を口に押し込み、湿布を肩にべたべた貼って、
布団をかぶって電灯を消す。

昼下がり、鉛のような足を引きずってポーチだけ持ってサドルにまたが
る。おっとりこぎ出すと、急な坂道であっという間に数百メートルを苦
もなく転がっていった。ぐねぐねした鉄道の線路を二度越えて、アスフ
ァルトが禿げ上がった道をがたがたと進んで行くと、ぽっかりと凹んだ
草地に遊歩道がいくつか横切っている。かすれた立看板があり坪井川遊
水池とある。

この遊水池は普段は水がないのであろう、イネ科の雑草とイタドリ、そ
の他の低木がおい茂っていた。一面、深く浅く緑色の世界に、菜の花が
点々と彩りを添えている。モンシロチョウが2、3羽ふわふわと漂って
いたがパタパタと羽ばたいて草むらの中へ消えていった。ところどころ
にスミレの群生が場違いに鮮やかな青紫色の塊を作っている。日差しは
温かいが山風は冷たく、やはり湿気を多分に含んでいる。

しばし風上の薄曇を見やって、雨の気配にはまだ遠いとペダルに足をか
けると、まさに晴天の霹靂。ザッと大粒の雨。狐の嫁入りというような
可愛いものではない。熊の婿入りか。慌てて折畳み傘を広げて、タオル
地のハンカチで顔を拭う。と、周りの人たちは委細構わず、雨など降っ
ていないかのような振る舞い。ずぶ濡れのスーツが自転車に乗って悠然
と通り過ぎていく。老婆が幼児の手を引いて、手提げ袋のほつれがどう
とかつぶやきながら、はね返りの水しぶきの中を歩いている。何とも不
思議な光景。べたべたになった靴下の感触に苦笑いを浮かべながら、散
策は別の機会に譲ることにして、よろよろと手押しで帰路を進んでいっ
た。

自宅に戻るには急な坂道があって雨中は難儀である。雨宿りを兼ねて、
坂下のスーパーに立ち寄った。入ってすぐに違和感を覚える。納豆が山
積みで熊本納豆のポップアップ、その横に こごみ と うるい が積み上
がっている。とても売れ筋とは思えないが。はて、夢かうつつか、はっ
きりしないよう心持ちになる。まだ布団をかぶっているような気もする
が、たといそうであっても珍しいものは確保しておくに越したことはな
い。夢なら夢の中で食べれば良いのだから。

さて、坂道を立ちこぎでとろとろ帰ってきた。さっそく台所に立って、
こごみ と うるい を塩茹でにし、酢味噌で和える。こごみ はまったく
えぐみがなく、ほろ苦いが旨味が強い。うるい はしゃっきりとして少
し鼻に抜ける香りが心地よい。副菜として上々の出来である。

はっと気がつくと流しで鍋ズミをこすり落としている。不安になって冷
蔵庫を開けると、ちゃんと酢味噌和えがあるではないか。新しい土地に
くると最初のうちはこういう具合で地に足が着いていない。今回も慣れ
るのに何ヶ月かかるだろうか。

カーテンを開けると眼下にいくつものマンションと家々が明々と空を照
らし、決して幅広でない坂道や生活道路を車がビュンビュンと飛ばして
流れている。東京の田舎よりもすっきりしているが豊橋と同じくらい雑
多な街並み。東大阪のようにデカダンスを受容する風ではない。ガラス
に写るくたびれた顔を指でつついて、なんとはなしに髪を掻き上げると
コメカミのあたりが白くなっている。はっと息を吹きかけて、手の甲で
拭おうとして、ため息に変わった。外はだいぶ冷えてきたようだ。明朝
は冷凍の三色団子を持って出て、霞とともに味わうとしよう。

富尾の丘から崇城大学を臨む (平成28年4月1日撮影)
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Copyright (c) Akira SaiToh (2010,2013-2016)


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